浦永雑記

つれづれなるまま綴る雑記

映画 「MANTO (マントー)」感想

大阪大学中之島センターで開催されたインド映画「MANTO(マントー)」の上映会に行ってきました。

女性映画監督のナンディタ・ダース監督が、実在の作家マントー(1955年に42歳で没)の半生について描いた作品です。

マントーはインド生まれのムスリム(酒も煙草もたしなむけれど…)。ムンバイで業界人の友人たちにも恵まれ、先端をゆく作家として一角の地位を築いていましたが、インド・パキスタンの争いが激化し、ラホールに移住。やがて酒に溺れ、作品も猥褻罪に問われて裁判に巻き込まれ…というストーリーです。


主役はナワズッディーン・シッディーキー。
演じる役すべてに、それぞれの人生のリアリティを確かに持たせる俳優だと私は思う。

お時間がある方はYou Tubeで見られる16分の短編映画Bypass(https://youtu.be/NCRBY9ss-58)を見てみてほしい。砂漠の盗賊二人組のうち主導権を握る男を演じているのが彼ですが、本当にこういうドライな役をやらせたら巧いんだよなぁ…。

「Bajrangi Bhaijaan (バジュランギおじさんと、小さな迷子)」でも良かったけど、「Dabba(めぐり逢わせのお弁当)」や「LION(ライオン 〜25年目のただいま〜)」で見せる人間の暗い淵みたいなものがすごいです。彼が出るというだけでその映画を見ようと思ってしまう。


さてさて、映画本編の感想を。


ナンディタ・ダース監督は、まさに天才だと思いました。
映画全体の、構図・色彩・カットの繋ぎ…。不穏さの描き方。最後までのまとめかた。各シーンも一本の映画としても洗練されています。


そして、面白いのはこの映画そのものの構図。

監督いわくナワズッディーン・シッディーキーを起用した理由は「彼の中には人の人生のすべてがあること」と仰っていて、確かにそれはその通りだと思うけど、実はこの映画、彼がマントーの心理を演じるところは描写が控えめで、その分マントーの作品の映像化を通して代弁させるつくりになっているのです。

そして、その作品の数々を映像化したシーンいずれにも凄みがある。

ナンディタ監督は上映終了後に「マントーの作風と自分の作風は似たところがある」と仰ってたけど、相性が合うからこそ、この構図が成功しているのだろうと思わさせられました。そして、各作品に語らせるというこの映画の構図自体が、マントーが作家であることを見事に表現していると思うのです。


個人的にすきなシーンはたくさんあり、例えば獄中で虫を眺めるシーンとか、妻サフィアに夜中にすがりつくシーンとか。

一番好きなのは、人間が出てないシーンなんだけど、ラホールに向けて船で出発するときの、夜の闇に光が滲むボンベイ…。すさまじい美しさ。そしてこのシーンが夜であるところがまたいい。最後にマントーがボンベイを目に焼き付けたくとも、暗くてよくわからないだろうところが…。

こういう描写とかでマントーの心を描くのが上手いんだよなぁ…。


映画の中のマントーについての感想だけど、結局のところマントーを殺したのは、ボンベイという街や友人たちと切り離された寂しさとアルコールの毒性だと思うのです。あと、才能のある集団を外れたことによる創造力の枯渇とか。

人って優れた人々の集団に混じっているとレベルが上がるものだと思うのですが、マントーの場合は逆に、俳優シャームや女流作家イスマットと離れたことによって、互いに負けまいとしていたボンベイ時代の環境が失われた結果、落ちぶれていったのではないかと。

だって、ラホールにも彼のインスピレーションとなる(と書くと失礼だけれども)地獄はあったわけです。ボンベイ時代から作風への風当たりも強かったわけで。そこはどちらの土地でも変わらない。
ただラホールは地味な街で、そこにはボンベイ時代のように互いに認めあえる業界人もほぼいない。

妻は子育てに必死だし(←夫が生活費を稼がないから必死にならざるを得ない)、どんどん孤立していくマントー。

それを作品に昇華できていたら、また違った道があったのかもしれない。でも彼には、あくまで書きたいテーマや方向性にこだわりがあり、それが却って道を阻んだのではないか…。

最後のトーバー・テーク・スィングのシーンを見ると、彼のアイデンティティはインド・パキスタンの争いで引き裂かれたという印象を受けますが、彼にとってそのアイデンティティとは、街や文化そのものでなく人間関係にあったのではないかと…そんなことを思いました。

そして誰にとってもアイデンティティってそうなのかもしれないな、とも。



114分/2018年カンヌ国際映画祭ある視点部門出品。アジア太平洋映画賞主演男優賞、フィルムフェア賞衣装デザイン賞など受賞。だそうです。

インド料理屋の白と紫

神戸に用事で出かけたついでに、初めて行くインド料理屋で昼ごはんを食べた。

客席が10席もない小さな店だったけれど、壁面には店の人たちが手掛けたらしい装飾が彩りを添えていて、ささやかな生花まで活けられていた。



よく見ると、白と紫の菊。



これは…これは…

仏花だ…。

たぶん、それは、
明らかに、
そのへんのスーパーで売られていただろう、
仏花だった。


お店の人たちは、仏花と知らずに飾っているのか。
それとも、仏花だと知っていながら、敢えて飾っているのか。気になりつつ、もう少し考えてみた。

日本では白と紫の菊が仏花として扱われている。
でもそれは日本人が勝手にそう扱っているだけで、インド人からすると「花は花だしきれいなものを飾って何がおかしいの?」と思うところなのかもしれない。

例えば、日本の喪服が黒いのに対してインドの喪服は白である。それと同じように、死に対するイメージも花に対するイメージも、文化の数だけ存在するだろう。

…じゃあ、インドにも死を思わせる花、不吉な花ってあるんだろうか。
気になる…。


そんなことを思いながらカレーを食べていたら、シャイな感じの店員が、手のひらに乗るような小さなガラスのグラスを持ってやってきた。


「甘いやつです」

これ以上ないほどの、簡潔な説明を添えて。



グラスを覗くと、中には白いココナッツミルク?のようなもの。
そこにうっすら、ピンク色がマーブル状に混じっている。
その上に、何と、乾燥した薔薇の花びらが何枚か浮かべられていた。



こんな小さなインド料理屋で、こんなロマンチックなスイーツ(「甘いやつ」)が出てくるなんて誰が想像するだろう…。

カレーを食べている最中もそんなことばかり考えて、満を持して食後に口に運んだら、
薔薇の香りがふわりと鼻腔を舞った。

ピンクの模様は、どうやら薔薇のシロップらしか
った。


こ、こんなシロップあるの!?インドに!!?
インド、めっちゃすてきやん…。
という、更なる驚き。


そういえばこの間、在日インド人のお宅を訪問したとき、そこの奥様がローズドリンクを振る舞ってくださった。彼女いわく「市販のシロップを水で割って冷蔵庫に常備している」とのことだったけど、それと同じものかもしれない。


何にせよ。
花のシロップが身近な国って、すてきだ。

そんな文化を持つインドの人々からしたら、菊も薔薇も花という点では等しく身近な存在なのかもしれない。そういえば、彼らが花輪によくするマリーゴールドは菊の仲間だ。


改めて白と紫の菊を見た。
スーパーでインド人の手に取られたときは、彼らも「!!??」となったのではないか。ましてや、レストランに飾られるなんて想像もしなかったはずだ。

しかし彼らは、今や堂々とそこに活けられていた。
白と紫が、艶やかに鮮やかに、花としての矜持を主張していた。