浦永雑記

つれづれなるまま綴る雑記

Fukusima, Kamikaze, Allahu Akbar

最寄りのスタバで、折り鶴を折ると広島に奉納してくれるというイベントをやっていて、2羽の鶴を折った。
どうも近くで原爆に関する展示をしているらしく、それに関連したものらしい。

鶴を折りつつ、戦争だけでなくテロや暴力が世界中から無くなればいいなと願いながら、ふと思い出したことがある。


つい先日見た何かのミリタリー系ゲームの映像で、敵が「Allahu Akbar!」と叫びながら突っ込んでくる…という演出がされていたこと。

それが本当にゲーム内の音声なのか、それとも誰かがゲームの映像に合成したものなのかはよくわからなかったけど、少なからず衝撃を受けた。

その映像のコメント欄で、誰かが「もはやAllahu Akbarがkamikaze化してんだな」というコメントを書いていた。鋭い感性だと思う。


kamikazeという単語は、特攻隊(自殺攻撃)を意味する言葉として、geishaやfujiyamaのように海外に直輸入されている。そして、欧米圏の映画を見ているとたまに登場する。…自殺攻撃を揶揄する言葉として。

Allahu Akbar(神は最も偉大なり)は、ISILなどイスラム過激派が自爆テロなどを行うときに叫ぶことから世界中に意味が伝わった言葉だと思う。平和なだけの世界なら誰もが知る言葉にはならなかったはずだ。

つまり元々の意味はさておき、今やkamikazeもAllahu Akbarも、自殺攻撃を行うほど追い詰められた(また、そうするよう洗脳された)人々の象徴としての言葉である。その苦しみに思い至らず揶揄できてしまう人々がいることを思うと、彼らもテロリストと同じほど恐ろしいと感じるし、心が寒くなる。


そして、ここ数年で、kamikazeのように欧米発の映画や本で見かけるようになった日本語の名詞がある。
"Fukushima"。この名詞が、ひどいものの代名詞として揶揄やジョークに使われる例を、最近、それこそ欧米の映画や本で、ちょくちょく見かけるようになった。

震災による原子力事故で被災したFukushimaだって、そこに住む人たちにとって大切な場所、故郷だ。
そのことに思い当たらず揶揄の種として使えてしまう人々がいるという恐ろしさ。



名も知らぬ誰かの、自分の命を犠牲にせざるを得ないほど追い詰められる苦しみや、災害や原子力事故に起因する悲しみを、想像もせずに笑いの種にできる人々が存在する限り、そりゃあ世界から戦争もテロも無くならないはずだと思う。
そして今日もまた誰かがどこかで犠牲になっている。



話を折り鶴に戻す。
こんなもの折ったって何にもならない。そんなこと誰もがわかっている。

でもそれが、逆に折り鶴の存在意義なのかもしれない。
鶴を折るだけではなく、何か別の行動をしなければ戦争もテロも減らないということに思い当たらせてくれるから、だ。



追記)
・インド映画では欧米圏の映画とは逆に、NagasakiやHiroshimaが戦争や悲劇のアイコンとして言及されるシーンをいくつか見かける。インドなんて核保有国だけど、HiroshimaやNagasakiに触れる作品が1つではない限り、原爆や戦争被害に対するある程度のイメージがあるのかもしれない。

・欧米圏の映画が〜と書きましたが、広島の平和記念資料館やホーチミン戦争証跡博物館では欧米の方々が、長崎の原爆資料館では中国系の方々が、それぞれ真剣に展示を見ていらっしゃる姿を見てきました。日本を含むどこの国でも、他者の苦しみについて想像しようとする人とそうでない人がいるのは同じだと思っています。

そして私自身、他人の苦しみを他人事だと思ってる部分は大いにある。これじゃだめなんだよなぁ。。

・ちなみに、日本の平和教育はぬるすぎる、と思っています。それはまた別の機会に書きたいところ。