浦永雑記

つれづれなるまま綴る雑記

あの日によせて

ばさばさという音がしました。ねていたわたしの上に何かがたくさんふってきたようなかんじがしました。お父さんの声が聞こえました。
「だいじょうぶか!大きな地しんだ。」
お父さんがふとんをどけてくれました。
あかるくなって、あたりを見ると、そこは本の海でした。たくさんの、本、本、本が、まわりをうめつくしています。いもうとも、本とふとんの間からほりおこされて、ねむたそうに顔を出しました。
ふっていたのは、本だなの中の本でした。

「お母さんは?」
「テレビの下じきになってるけどだいじょうぶ。今から助けてくる」
やがてお父さんがお母さんを助けだし、四人で台所に立ちました。
「あぶない!」
「きをつけよう!」
家のゆかは、どーん、ぐらりぐらりと、ゆれつづけています。

お皿がたくさんわれていました。
いろんなものがちらばっていました。
家の中じゅう、ぐちゃぐちゃで足のふみ場もありません。
何とかへやから上ぎをとって、ぐちゃぐちゃなげんかんでくつをはいて、みんなで外に出ました。

外に出ると、マンションに住むたくさんの人がいて、大人の人たちは
「おーい、みんなだいじょうぶか!」
「これは地しんやなぁ!」
「とにかくじょうほうをあつめないと!」
と声をかけあっていました。
「水が出ない!」
「でんきも止まってる!」
わたしが外のじゃぐちをひねると水が出たので、お父さんにほうこくしましたが、その水もすぐに出なくなってしまいました。

ちゅう車じょうにあつまって、車のラジオをつけました。
「そんなに大きな地しんだったのか」
「近くの家、くずれてる。助けに行ってくる」
大人たちは近所を見に行きました。
たくさんの家がつぶれていて、助けようとしたけれど、下じきになって助からない人たちが何人かいたと聞きました。

夕方、おおさかに住むおじいちゃんたちが二人とも、リュックサックに水やおべんとうやおかしをつめてやってきました。でんしゃが止まったので、と中からずっと歩いてきてくれたそうです。しっかりもののほうのおじいちゃんのもってきてくれたコンビニのオムライスは、つめたかったけど、おいしかったです。おもしろいほうのおじいちゃんは、おかしをたくさんもってきてくれましたが、元気がでました。二人とも、もうコンビニにはほとんど何もおいてなかったと言いました。
その日から、しばらく車の中でねました。

小学校は、ぴかぴかの新しい校しゃをたてているところでしたが、それはわたしたちがつかう前に、「ひなんじょ」になりました。
たいいくかんのやねは、地しんでぜんぶおちて、「ひなんじょ」につかえなくなっていたからです。
水がないので、朝はお母さんといもうとと近くのきゅう水所へ、夜おそくにはお父さんとお母さんがどこかに車で、水をとりにいきました。
おふろに入れなかったので、自てん車にのっていろんなとおいおふろやさんまで入りに行きました。

テレビでひがいのようすを見ました。しっている高かや道ろがくずれてまるごとおちていました。ビルもまよこにたおれていました。こうべのあたりはとくにひどくて、火じがたくさんおきて、家がたくさんつぶれて、人がたくさんなくなったとのことです。

やがて小学校の先生がかていほうもんに来ました。お母さんが、おばあちゃんがくれたバームクーヘンを一本おすそわけすると、「みなさんもこんなにたいへんなときに」と言って、先生は泣きました。先生は、こうべの地しんが一ばんひどかったところから学校にかよっていたと、あとになって知りました。

そのうち学校がはじまりました。じゅぎょうは、さむいりかしつでやります。ひなんじょに住む友だちもやってきました。わたしのしっている人はみんなぶじだと聞きましたが、きている人はあまりいませんでした。
日にちがたっても、お友だちはそんなにふえませんでした。みんな、どこかにひなんしていったのです。
なかの良かったお友だちも転校したと聞きました。
それからしばらくたって、うんどうじょうのまん中で、その子の名前が入ったえんぴつをひろいました。
まい日のように会っていた子が、さよならもいわずにはなればなれになるとは思わなかったな、と思いました。


大人になって、当時のニュースを見聞きして涙ぐむことが増えました。自分があのときの両親に近い年齢の社会人になり、未曾有の災害の中で子どもたちを育ててくれた大人たちの苦労を、年々想像できるようになってきたからです。誰もが必死で、もしかして一々大変だなんて思っていなかったかもしれないけど、生活していくための何から何まで気の遠くなるような労力も時間もかかっていたことは確かです。
たまたま転職する前後とも関西に縁のある仕事をしているので、先輩方から当時の話を聞くと、「人力でそこまでやったの⁉」「関西が地震から立ち直っていった背景には若かった頃の彼らがいたんだなぁ」などとびっくりするやら感慨深いやら、二十五年という歳月の長さについて考えさせられることも少なくありません。

日々立ち向かう仕事はしんどくて、職場に行きたくないと思うことも正直しょっちゅうあるけれど、いつかの誰かのためになる仕事だと自分に言い聞かせ、文句や愚痴はこぼしながらも、せめて遠い将来の人たちが困るミスはしないように進めていきたい、との思いを毎年新たにするのが、私にとっての一月十七日です。

あの日の大人たちのようになれるよう、またここから一歩を踏み出すのです。